YTOな"こころ"のブログ

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毎週17時更新!やましなおの整骨院の雑記ブログです('ω')

【歴史ブログ】人気武将"豊臣秀吉"の出世城『長浜城』から学べること

長浜城アイキャッチ

こんにちは!やましなおの整骨院です😊

 

農民から天下人へと上り詰めたことで、現在でもかなりの人気を誇る武将"豊臣秀吉"

そんな秀吉が、生涯で攻め落とした城や築いてきた城は数多く存在します。

 

一番有名なのは天下統一を成し遂げた大阪城ですが、秀吉が一国一城の主となった拠点は、滋賀県にありました🏯

 

今回は、豊臣秀吉がはじめて築城したと言われる出世の城。

滋賀県長浜市にある長浜城(ながはまじょう)』の歴史について、わかりやすくお話したいと思います✨

 

◯秀吉の大功によって手にした長浜の地

長浜城

1570年に起きた「姉川(あねかわ)の戦い」

そして、1573年の「小谷城(おだにじょう)の戦い」

50年に渡り、滋賀県の北部で覇を唱えた"浅井(あざい)氏"が、滅亡の道を歩むことになった上記の戦い。

 

前線基地となる城を守り抜き、3千の兵を率いて小谷城を攻め落とすなど、織田信長軍の家臣として、最も功績を残したのが豊臣秀吉だと伝えられています😌

浅井氏との戦いで大功をあげた秀吉は、浅井氏が支配していた土地の大部分を与えられ、小谷城に入りました。

 

晴れて一国一城の主となった秀吉ですが、すでに翌年には、新しい城への築城を開始していたそう😳

そして、1577年頃に完成したのが、長浜城であると考えられています。

 

元々、今浜と呼ばれていた浅井氏の領地は、織田信長の名前から一文字とって長浜へと改名されました。

そんな長浜の地には、豊臣秀吉が築いた城下町の面影が、今でもたくさん残されています🍀

豊国神社

黒壁スクエア近くにある豊臣秀吉を祀る豊国神社

 

◯出世の城『長浜城』から学べること

天守閣

長浜城からの眺め

日本五大山城の一つにも数えられる小谷城を持ちながら、なぜ秀吉は新しい城へ移り住もうと考えたのでしょうか?

その背景には、秀吉による領国近江の経営戦略がありました。

 

戦国時代の戦略でいえば、小谷城みたく山の上に城を構えることは、決して愚策ではありませんよね🤔

山の上だと、敵軍は攻めにくいですから。

 

しかし、秀吉が築城した長浜城は、湖岸沿いに建てられています🏯

つまり、敵軍が攻めてくるリスクを承知の上で、びわ湖の舟運(しゅううん)を重視した経営戦略を選択したということですね。

 

当時のびわ湖は、大阪・京都・福井へ物資を輸送する水運拠点として非常に重要な役割を担っていました🤝

びわ湖の水上を支配すれば、政治的・軍事的にも権力を握ることを意味していたわけです。

"びわ湖の海賊"とかも居たくらいですからね(笑)

豊臣秀吉
秀吉は、戦での功績や一国一城の主である自分に満足をせず、常に次なる一手を考えていました。

「天下人になる」という目的があったからこそ、リスクを顧(かえり)みず、思い切った行動を起こすことができたのでしょう✨

 

出世の城『長浜城』から学んだのは「目的を達成するためには、リスクを冒してでも行動しなければならない時がある」ということです。

ホントに変えたいことがあるなら"ずっと今のまま"では駄目なのかもしれません🤔

 

もしも、秀吉がいなければ、今の長浜はなかったでしょうし...

私たちも目標に向かって、少しずつでも前へ進んでいければ良いですね🌈

 

長浜城の今

長浜城歴史博物館

1615年になると、長浜城は湖北支配の役割を彦根城に譲り、廃城したと伝えられています。

現在の長浜城は、1983年に歴史博物館として新たに建築されたもの📚

「長浜の城下町を築き上げた秀吉の出世城を再興させたい!」という市民の方々の熱い想いが、形になったお城なんですね。

 

長浜城歴史博物館の二階と三階には、湖北・長浜のあゆみと浅井氏の歴史

豊臣秀吉と長浜の歴史に関する展示室がありました✨

 

四階は、歴史博物館では珍しい茶室になっていてビックリしましたね(笑)

4月〜5月と10月〜11月の日曜日・祝日だけ、開庵されているそうです🍵

 

五階はパノラマ展望台になっていて、長浜の街並みを一望できますよ。

豊臣秀吉と長浜の歴史をより詳しく学びたいという方は、長浜城へ足を運んでみてはいかがでしょうか🍀

長浜城歴史博物館

住所:〒526-0065

滋賀県長浜市公園町10-10

開館時間:9:00〜17:00

休館日:年末年始

入館料:大人410円 子供200円

駐車場:豊公園駐車場内(3時間以内無料)