こんにちは!やましなおの整骨院です😊
今回は、農民から天下人へと異例の大出世を成し遂げた"豊臣秀吉公"を祀る「豊国神社(とよくにじんじゃ)」をご紹介。
京都市東山区にある当社は、全国に点在(てんざい)する豊国神社の総本社⛩出世開運のご利益で人気の神社ですが、その歴史には光と影が存在するようです。
豊国神社本殿の拝殿は、立派な唐門(からもん)になっていました✨もとは、徳川家康にゆかりのある"金地院(こんちいん)"にあった門を移築したもの。
徳川家康自身は、豊国神社のことをあまり良く思っていなかったらしく、豊臣家の滅亡とともに、実は一度廃絶されているんですね。
しかし、明治になった直後の1868年。秀吉の大ファンであった明治天皇の命令により、再興(さいこう)されたのが現在の本殿です😌
本殿前の凛々(りり)しい"豊臣秀吉像"は、1995年の阪神淡路大震災で台座が壊れてしまい、24年間お蔵入りになっていたもの。
「令和の安泰を見守ってもらおう」という想いから新天皇即位に合わせて、再び公開されるようになったそうです✨
豊国神社へ参拝した際は、ぜひコチラも拝観してみて下さい。
◯豊臣家が滅びるきっかけとなった鐘
本殿の北側にある大きな鐘🔔この鐘は、"方広寺(ほうこうじ)"というお寺のものですが、豊国神社からも拝見できます。
当時は、この場所に奈良の大仏よりも大きな大仏が安置されていたのですが、完成した翌年に地震で倒壊💦
秀吉は、そのことにかなり御立腹(ごりっぷく)だったらしく、大仏にむかって「自分の身も守れないのか」と言い放ったそうです(笑)
梵鐘(ぼんしょう)には「国家安康」「君臣豊楽」と刻まれており、これに徳川家康が大激怒😡豊臣家が滅びる"大阪の陣"の火種となったそうです。
なぜ徳川家康は、上記の句を詠んで、怒りをあらわにしたのでしょうか?
と、解釈した。
つまり方広寺の梵鐘は、"家康および徳川家を冒涜(ぼうとく)する鐘である"と判断されてしまったわけです😅
現在で考えると、梵鐘の句くらいで豊臣家を滅ぼしてしまうなんて、むちゃくちゃな動機ですよね(笑)
しかし、名前が功績に対しての称号であった武家社会おいては、かなり重要なことだったのでしょう🤔
豊臣側がもう少し徳川側に配慮していれば、もしかしたら歴史は大きく変わっていたのかもしれませんね。
◯まとめ
ということで、出世開運として有名な「豊国神社」の光と影、歴史の片鱗(へんりん)をたどっていきました。
しかしながら、復活した本殿の唐門には、なぜ子孫を滅ぼした徳川家康にゆかりのある寺の門が使われていたのでしょうか?
気になったので調べてみると、元の元をたどれば「秀吉の伏見城の唐門だった」という見解があり、合点がいきました。
豊臣家にとっては、かなり波乱万丈な人生の一部ですが、神社を参拝することでその歴史を垣間見れるのは面白いですよね🤔
ちなみに参拝者は、20代前半の若い女の子が多くて、びっくりしました(笑)
歴女かな?若い世代にも神社参拝が浸透しているのは、嬉しいですね😁
年末年始は、豊国神社を参拝して、令和の安泰と出世開運を祈願するもの良いかもしれませんよ🌈✨
住所:〒605-0931
TEL:075-561-3802
駐車場:有(無料)
【豊臣秀吉の遺構が残る島】
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