YTOな"こころ"のブログ

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毎週17時更新!やましなおの整骨院の雑記ブログです('ω')

【歴史ブログ】忠臣蔵で描かれる「赤穂事件」とはどのような事件だったのか?

忠臣蔵アイキャッチ

こんにちは!やましなおの整骨院です😊

 

歌舞伎や小説、ドラマなどあらゆる分野で愛されている作品といえば「赤穂(あこう)事件」を題材にした忠臣蔵(ちゅうしんぐら)』

最近は、忠臣蔵を知らない方もいらっしゃるかもしれませんが、江戸時代から語り継がれる非常に有名なお話です😌

2000年代には、キムタクさんがドラマで"堀部安兵衛(ほりべやすべえ)"役を演じて、一躍ブームになったんですよ(笑)

 

今回は、そんな忠臣蔵で描かれている「赤穂事件」とはどんな事件だったのか?を簡単に解説していこうと思います✨

歴史が苦手という方もわかりやすく説明していくので、ぜひ最後まで読んでみて下さいね。

 

【目次】

  

赤穂事件のキッカケ

赤穂事件とは

まず赤穂事件は、江戸時代中期の旧暦3月(ちょうど今頃ですね)

赤穂藩の第3代藩主"浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)"が、江戸城本丸の大廊下で、刀傷事件を起こしたことがキッカケとなります。

つまり浅野は、江戸城内でいきなり仲間を斬りかかった!というわけですね🗡

 

この斬られた相手というのが、"吉良上野介(きらこうずけのすけ)"という高家

高家というのは、江戸幕府における儀式や典礼を行う役職で、事件当日は朝廷から天皇の勅使(使者)が挨拶にくる大切な日でした😳

吉良は、大名の浅野よりも5つくらい上の立場で、浅野に対して儀式の指導を行っていたのです。

 

一番問題だったのは、幕府が天皇の使者を接待中だったにもかかわらず、公的な場で浅野が吉良を斬りつけてしまったこと😓

この事態に大激怒した第5代将軍"徳川綱吉(とくがわつなよし)"は、浅野に即日切腹の処分を命じます。

浅野が切腹した場所は屋外だったわけですが、これは大名という身分にそぐわない扱いで、綱吉の激おこ度合いがわかる記述ですね😡

 

刀傷事件のその後

江戸の風景

主君を失った赤穂藩は、江戸幕府に城を明け渡すように命じられます。

今でいう会社の倒産といった感じでしょうか💦

赤穂事件が有名になったのは、浅井家が潰れて終わり!ではなかったから。

 

赤穂藩は、浅野に斬りつけられた吉良が実は生きていて、しかもお咎(とが)めなしだったと知ってしまったのです😡

このことから事件は、浅野の家臣たちによる主君の仇討ちへと移るのでした。

赤穂藩の主君は、幕府ではなく浅井内匠頭ですし、家臣たちにも守るべき家族がいますから、このまま黙って倒産ってわけにもいかなかったわけです🤔

 

ちなみに、浅野が吉良を斬りつけた理由については、現在でも解明されていません。

幕府は、浅野と吉良の両方に聴取をしましたが、その理由が"遺恨"であった以外は語られなかったのです😅

仮説では、吉良の賄賂(わいろ)が関係していた説や吉良のいじめ説でありますが、真相は闇の中というわけですね。

 

赤穂藩とは?

大石内蔵助

大石内蔵助

主君である浅野内匠頭が即日切腹となり、しかも相手の吉良上野介はお咎めなしで生存しているとなれば、黙っちゃいないのが赤穂藩

両者に"遺恨"があったならば、喧嘩両成敗で「吉良も処分されなければおかしいのではないか?」ということですよね💢

まぁ、吉良は不意に斬られているわけですから、少し可哀想な気もしますが(笑)

幕府側も、"浅野の乱心ではない"ことを認める記述があるので、何かしらの処分が下ってもおかしくはなかったわけです🤔

 

そもそも赤穂藩は、戦(いくさ)のなかった平穏な江戸時代では珍しく、めちゃめちゃ武闘派集団(笑)

例えば、討ち入りの指導者となった"大石内蔵助(おおいしくらのすけ)"は、敵城への単身入り。

ドラマでキムタクさんが演じた堀江安兵衛は、18人斬りで名を馳せていました⚔️

 

かなり血の気の多い集団だったことから、吉良を早く討ち取ることを主張した急進派も多くいたようです。

そのリーダー格として知られているのが、堀江安兵衛ですね☝️

しかし、大石内蔵助浅井家再興にわずかな希望をかけて、幕府へ城を明け渡す選択をします。

 

つまり、浅井家に仕えていた家臣は、全員浪人(無職)になってしまったということ💦

そこから、浅井内匠頭の弟"浅井大学"の処分が決まるまでの約2年の間、吉良の討ち入り計画は実行されませんでした。

 

赤穂浪士47と吉良討ち入り

討ち入り

浅井大学の処分が決定し、浅井家再興への道が絶望的になると、大石内蔵助はいよいよ吉良の討ち入りへ動き出します。

当時は吉良討ち入りへ意欲をみせていた家臣たちですが、刀傷事件から2年も経過した後では心境に変化が...

「辛いことは時が解決してくれる」というように熱がすっかり冷めてしまったり、すでに新しい生活を送っている家臣もいたわけです。

 

これは、致し方ない。吉良を討ち入りすれば、切腹か打ち首は待逃れませんから「2年後に言われても...」って感じでしょうね(笑)

結局、最後まで残って吉良邸へ襲撃をかけた47人の武士が、忠臣蔵で描かれる"赤穂浪士(あこうろうし)"です😌

ドラマでは、大雪の中での合戦シーンが印象的な1703年1月30日深夜に討ち入りは決行されました。

 

ちなみに襲撃をうけた吉良邸は、武力に長けた赤穂浪士に為す術なし!といった感じで💦吉良を討ち取るまでは、わずか2時間ほどの出来事だったそうです。

刀傷事件から2年以上も経過して油断していたのでしょうか?

屋敷に100人近くいた吉良の家臣ですが、迎え撃ったのはわずか40人ほど。

赤穂浪士側に死者は、いなかったそうです😳

 

まとめ

大石神社

赤穂浪士を祀る京都の大石神社

ということで、刀傷事件から吉良討ち入りの流れが、忠臣蔵で描かれている「赤穂事件」です。

客観的にみると「吉良上野介浅野内匠頭に不意に斬られる⇒お咎めなしで浅野の家臣に恨まれる⇒屋敷を襲撃され、討ち取られる」って感じで、吉良がかなり可哀想なお話でしたね(笑)

 

では、なぜここまで「赤穂浪士がヒーロー扱いされていたのか?」ということです。

戦のなかった江戸時代の武士は、殉死(じゅんし)も禁じられており、一般的に"武士=腑(ふ)抜け"というレッテルを貼られていました😥

ですから、主君の仇討ちのために命を捨てて、吉良を討ち取った赤穂浪士のサムライスピリットが、人々の心を動かしたのでしょう。

 

ぶっちゃけ、かなり理不尽な話だと思いますが(笑)創作されているとはいえ、ドラマの討ち入りシーンは、やっぱり格好良いですからね✨

ちなみに、実際に吉良邸を襲撃したのは46人で、1人は土壇場で逃走したとも、万が一のために別行動をしたとも言われていますが、真相はわかっていません。

残った1人は、結局切腹もしていないし、誰にも責められることなく83歳まで生きた。っていうのも面白いなぁと思いました(笑)

 

そういう謎が多い所も赤穂事件の魅力なのかもしれませんね😌