こんにちは!やましなおの整骨院です😊
5月5日は『端午(たんご)の節句』ということで、小さいお子さんがいらっしゃる方にとっては、特に重要なイベントですよね。
端午の節句の一般的なイメージでは「男の子の健やかな成長を祝い、祈願するイベント」という認識が多いかと思います😌
しかし元々、端午の節句は"女性の祭りだった"という説もあり、色々歴史のあるイベントなんですよ。
そこで今回は、意外と知らない日本の風習と題しまして「端午の節句とはどんな行事なのか?」をご紹介いたします✨
◯端午の節句のはじまり
そもそも端午の節句のはじまりは、2,300年以上前の中国であるといわれています。
当時、国王の側近として勤めていた"屈原(くつげん)"は、正義感が強く国民からも非常に人気の人物でした✨
しかし、屈原は仲間の陰謀により、国を追われる身となってしまうのです。
将来、権力を握りそうな人物を裏切る行為は、日本の伝承でもよく見られますね😓
結局、屈原は自ら川へ飛び込み、その生涯を終えました。
屈原の死を嘆き悲しんだ国民は、魚が食べてしまわないよう太鼓を打ち鳴らし、"粽(ちまき)"を投げて屈原を守ったそうです😢
5月5日は、そんな屈原の命日であったため、多くの粽(ちまき)が川へ投げ入れられ、国の安泰を祈願する風習へと変化していきました。
この風習が、端午の節句のはじまりといわれており、日本に伝わってきたのは奈良時代の頃だそうです😌
日本で5月といえば、田の神を迎え入れる田植えが行われるシーズン。
奈良時代の田植えでは、女性が自宅にこもって身の清める『五月忌(さつきい)み』という習慣がありました🙏
その五月忌みと中国から伝わってきた端午の節句を合体したのが、現在の風習。
日本では元々、女性のお祭りだったわけですね😳
◯なぜ男の子のお祭りに変わったの?
5月は季節の変わり目で、古くから疫病が流行しやすい時期でした。
そのことから、女性のお祭りだった『五月忌(さつきい)み』と中国の『端午(たんご)の節句』は、病気や災厄をさけるための風習に変化していきます🤔
粽(ちまき)を食べる意味も、国の安泰を願うものから災厄をさけるものへと変わっていきました。
端午の節句では、植物の"菖蒲(しょうぶ)"を活用することも多いですが、これも中国から伝わった邪気を祓う風習の一つです🌿
戦国時代になると、"菖蒲=勝負"に通じるとして、武士の間で流行しました。
端午の節句は、この頃から立派な武士になるために成長を願う、男の子のお祭となっていくのです🗡
◯五月人形や鯉のぼりに込められた想い
端午の節句といえば、勇ましい"五月人形"や華やかな"鯉のぼり"を飾るイメージが強いのではないでしょうか。
五月人形や鯉のぼりを飾る風習も、戦国時代から江戸時代の頃に主流となっていきました😌
五月人形は、戦国時代の大将と本陣を表しており、兜や甲冑(かっちゅう)には守護の願い。
一緒に飾られている刀や弓などは、相手を威嚇する武器ではなく、神器のように魔除けの願いが込められています🏹
鯉のぼりは、"流れの急な河を登り切った鯉は、龍になれる"という中国の伝承にあやかったもの。
五月人形も鯉のぼりも「力強く、すくすく成長してほしい!」という親心から誕生したわけですね🎏
ちなみに鯉のぼりは、元々1匹飾りで、大きい真鯉は"子供"を表していました。
時代が進むにつれ、大きい真鯉がお父さん、赤い緋(ひ)鯉がお母さん、青い鯉が子供たちへと変わっていったのです✨
「家族みんなで一緒に成長しよう!」という意味が込められているみたいで、著者は今の鯉のぼりの方が好きですね。
最近では、大きい鯉のぼりを飾る家は見られなくなりましたが、子供の成長を願う親心に変わりはないはず🥰
端午の節句は、時代の流れに合わせて少しづつ変化してきましたが、どんな形であれ後世に残してほしい風習ですね。